コンラート・クジャウとは?ヒトラーの日記捏造事件

詐欺事件
コンラート・クジャウとは?ヒトラーの日記捏造事件を3行で要約
  • ドイツの偽造師コンラート・クジャウは、1981年から1983年にかけてヒトラーの日記60巻を安価なノートと紅茶で古びさせた紙を使って偽造した
  • ドイツの有名週刊誌シュテルンが930万マルク(約370万ドル)で購入し、サンデー・タイムズにも転売。一部の歴史家が本物と認定する中、世紀の大スクープとして公表された
  • 公表からわずか数日で科学的鑑定により偽造が確定。クジャウと仲介記者ハイデマンに懲役4年6ヶ月が言い渡された。20世紀最大の出版スキャンダルとなった

第三帝国の歴史の一部は書き直されなければならない――。1983年4月、シュテルン誌の編集長はヒトラーの日記の発見をそう宣言しました。しかしその歴史を書き直したのは偽造師の手であり、書き直されるべきだったのはシュテルン誌自身の検証体制でした。

この記事では、安価なノートと紅茶で作られた偽の日記がなぜ世界的な大スキャンダルに発展したのか、その経緯と教訓を解説します。

クジャウの経歴とナチス記念品ビジネス

コンラート・クジャウとは、1938年にザクセン州レーバウで生まれたドイツの偽造師であり、ヒトラーの日記捏造事件の首謀者です。

東ドイツで育ったクジャウは1957年に西ドイツに逃れ、シュトゥットガルトで骨董品ディーラーとして生計を立てました。コンラート・フィッシャーという偽名を使い、通貨偽造やナチス時代の記念品の偽造など小規模な詐欺を繰り返していました。

クジャウはヒトラーの筆跡を何年も練習し、ヒトラー作と称する絵画やナチスの公文書を偽造して販売するビジネスを確立していきます。この過程で、シュテルン誌の記者ゲルト・ハイデマンと接触するようになりました。ハイデマン自身もナチスの記念品に強い関心を持つ人物であり、2人の関係が世紀のスキャンダルへとつながっていくのです。

ヒトラーの日記の偽造手口

クジャウがヒトラーの日記を偽造した手口は、安価なノートを紅茶で染め、古びた外観を作り上げるという驚くほど原始的なものでした。

日記は1932年から1945年のヒトラーの自殺直前までの期間をカバーする60巻以上の構成で、1981年から1983年にかけて制作されました。クジャウはヘスのイギリスへの飛行、水晶の夜(クリスタルナハト)、ホロコーストに関するヒトラーの見解など、歴史的事件へのコメントを盛り込んでいます。

しかし偽造には明らかな欠陥がありました。表紙にはゴシック体のイニシャルが刻まれていましたが、クジャウはAH(Adolf Hitler)ではなくFHと誤って刻印してしまいました。装飾的なゴシック体でAとFを混同したのです。さらにヒトラーの側近たちは、ヒトラーがそもそも日記を付ける習慣がなかったことや、1944年の暗殺未遂事件以降は利き手を十分に使えなくなっていた事実を証言しています。

クジャウはこれらの日記をハイデマンを通じてシュテルン誌に売却し、総額930万マルク(当時約370万ドル)を受け取りました。ただしこの金額の一部はハイデマンが中抜きしていたとされています。

日記の来歴として語られた物語は以下の通りです。1945年4月21日、ヒトラーの私物を積んだSS機がドレスデン近郊で墜落。日記は農民に回収され、長年納屋に隠されていた。クジャウはこの農民から入手したと主張しました。実際にこの墜落事故は起きていますが、日記の存在を示す証拠は何もありませんでした。

シュテルンの公表と即座の崩壊

1983年4月22日、シュテルン誌は記者会見でヒトラーの日記の発見を世紀のスクープとして発表しました。

公表前に一部の歴史家に鑑定を依頼していましたが、シュテルンの秘密主義的な姿勢が仇となりました。鑑定者にはナチス文書の専門家がおらず、完全な日記ではなくサンプルの一部のみが提供されました。筆跡鑑定の専門家は筆跡が同一人物のものだと結論づけましたが、比較対象として提供された文書自体がクジャウの偽造品だったのです。

英国のサンデー・タイムズもシュテルンから権利を100万ドル以上で購入。高名な歴史家ヒュー・トレヴァー=ローパーが当初は本物と認定しましたが、公表直後に疑念を表明しています。

公表からわずか数日後、ドイツ連邦文書館とスイスの研究所が科学的鑑定を実施し、紙、インク、綴じ紐の全てが戦後の素材であることが判明。日記は完全な偽造であると確定しました。綴じ紐に現代のプラスチック繊維が含まれ、インクの化学組成も時代と一致しなかったのです。

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この事件の最大の教訓は、世紀のスクープを手にしたいという欲望が、基本的な検証を省略させたことです。公表前に日記の紙やインクの化学分析を行っていれば、偽造は即座に発覚していたはずです。しかしシュテルンは秘密主義にこだわるあまり、十分な専門家に十分な資料を提供することができませんでした。スクープを独占したいという焦りが、最も基本的なジャーナリズムの原則を破壊したのです。

判決とその後

1983年5月14日にクジャウが自首し、同月27日にはハイデマンも逮捕されました。クジャウは取り調べで全ての偽造を認め、自白書をヒトラーの筆跡で書くというパフォーマンスまで見せています。

1985年7月、ハンブルク地方裁判所はクジャウとハイデマンの双方に懲役4年6ヶ月の判決を下しました。クジャウは3年で仮釈放されています。

シュテルン誌の信頼は深刻なダメージを受け、編集長をはじめとする幹部が辞任に追い込まれました。サンデー・タイムズも編集部の刷新を余儀なくされ、本物と認定したトレヴァー=ローパーの学者としての評判は永久に傷つきました。

出所後のクジャウの人生は皮肉に満ちています。シュトゥットガルトにギャラリーを開き、ヒトラー、レンブラント、ダリ、モネなどの画家のスタイルで描いた作品を本物の偽造品として販売。作品にはクジャウ自身の署名とオリジナル画家の署名の両方を記載し、数万ドルで取引されました。さらにクジャウの偽造品を模倣した偽物が出回るという二重の皮肉まで生まれています。クジャウは2000年に62歳で胃がんにより死去しました。

まとめ

  • クジャウは安価なノートと紅茶でヒトラーの日記60巻を偽造し、シュテルンに930万マルクで売りつけた。表紙のイニシャルすら間違えていた
  • シュテルンはスクープへの焦りから基本的な科学鑑定を省略し、20世紀最大の出版スキャンダルを引き起こした
  • 歴史的文書の真贋判定には、筆跡鑑定だけでなく紙やインクの化学分析が不可欠だ。専門家の権威も、科学的検証に取って代わることはできない

よくある質問

Q
なぜ専門家が本物と認定してしまったのですか?
A

最大の原因は、筆跡鑑定に使われた比較対象の文書自体がクジャウの偽造品だったことです。同一人物が書いたものだという結論は技術的には正しかったのですが、その人物はヒトラーではなくクジャウでした。また鑑定者にナチス文書の専門家が含まれておらず、完全な日記ではなくサンプルのみが提供されたことも致命的でした。

Q
偽造日記の内容はどのようなものでしたか?
A

1932年から1945年4月までの期間をカバーし、ルドルフ・ヘスの渡英、水晶の夜、ホロコーストに関するヒトラーの見解などが含まれていました。しかし内容の多くは既存の歴史文献からの借用や改変であり、歴史的事実と矛盾する記述や人名のスペルミスなども含まれていました。ヴァンゼー会議に関する記述も含まれていましたが、議事録からの引用を改変したものでした。

Q
偽造日記は現在どこにありますか?
A

偽造が確定した後、60巻の日記はシュテルンのアーカイブに保管されました。北ドイツ放送(NDR)が偽造日記の全文をオンラインで公開しており、研究者が内容を検証できるようになっています。歴史的偽造の実例として、メディアリテラシー教育の教材としても活用されています。

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