アデル・スピッツエダーとは?世界初のポンジの全貌

詐欺事件
アデル・スピッツエダーとは?世界初のポンジの全貌を3行で要約
  • ドイツの女優アデル・スピッツエダーは1869年にミュンヘンで個人銀行を設立し、月利10%という驚異的な利回りで庶民の預金を集めた
  • シャルル・ポンジより約50年も早く、新規預金者の金で既存預金者への利息を支払うポンジ・スキームを運営。19世紀バイエルン最大の詐欺事件となった
  • 1872年に破綻し、約3万2000人から3800万グルデンが消失。当時ポンジ・スキームという概念が法律に存在しなかったため、詐欺罪ではなく不正経理の罪で約3年の禁固刑を受けた

月利10%――現代の感覚でも異常な高利回りですが、1869年のミュンヘンで、この約束を信じて全財産を預けた市民が3万人以上いました。その預金を集めた人物は、銀行家ではなく元女優でした。

アデル・スピッツエダーは、あのシャルル・ポンジが生まれる前からポンジ・スキームを実行していた人物です。この記事では、世界初とされるポンジ・スキームがどのように生まれ、なぜ3年も続き、どう崩壊したのかを解説します。

女優から詐欺師への転落

アデル・スピッツエダーとは、1832年にベルリンで生まれたドイツの女優であり、世界初のポンジ・スキームを運営した人物として歴史に名を残しています。

芸名アデル・ヴィオとして1856年に女優デビューし、当初は高い評価を受けていました。しかしその後、演劇でのキャリアは下降線をたどります。贅沢な生活を続けていたスピッツエダーは、ハンブルクやチューリッヒの債権者から逃げ回る日々を送っていました。

母親からの仕送りだけでは、ホテル暮らし、恋人、複数の使用人、6匹の犬を含む豪華な生活を維持できるはずもありません。金に窮したスピッツエダーが目をつけたのが、金貸しのビジネスモデルでした。彼女は頻繁に利用していた金貸しの手法を観察し、自分でもそれを始めることを思いつきます。

100グルデンから始まった巨大詐欺

1869年秋、スピッツエダーはミュンヘンの貧民街アウで大工の妻から100グルデンを借り、月利10%の利息を約束しました。これが全ての始まりです。

数日後にスピッツエダーは約束通り20グルデン(2ヶ月分の利息)を返し、3ヶ月後にはさらに110グルデンを支払うと告げました。この話は口コミでミュンヘンの労働者階級に瞬く間に広まります。次々と預金者が現れ、スピッツエダーは年末までにシュピッツエダー個人銀行(Spitzedersche Privatbank)を設立しました。

顧客の大半がミュンヘン北部、特にダッハウ周辺の労働者だったため、この銀行はダッハウアー銀行とも呼ばれるようになりました。当時のバイエルンでは、ユダヤ系の銀行家に対する不信感が根強く、キリスト教徒であるスピッツエダーに預金したいと考える庶民が多かったことも、急成長の一因です。

一部の農家は農地を売却し、その代金を全額預けて利息だけで生活しようとしたほどでした。最盛期にはバイエルンで最も裕福な女性と見なされるまでになっています。

スピッツエダーの銀行経営は極めて杜撰でした。会計の訓練を一切受けておらず、預かった金はクローゼットや床に積み上げた袋に保管。帳簿には預金者の名前と金額を記録するだけで、字が読めない顧客は名前の代わりにXXXと署名していました。

崩壊と裁判

1872年11月、当局がついにスピッツエダーの銀行に正式な会計基準の遵守を命じたことで、崩壊が始まりました。

バイエルン政府は以前からスピッツエダーの銀行を閉鎖する法的根拠を探していましたが、引き出し要求には常に応じていたため、手を出せない状況が続いていたのです。ようやく1872年に裁判所が正式な登録と会計基準の遵守を命じると、警察に動員された40人の投資家が帳簿の監査を請求しました。

11月12日、5人の監査人がスピッツエダーの自宅を訪れた際、ライバル銀行に煽られた60人の投資家が元本の返還を要求して押し寄せます。スピッツエダーの手元にはもう十分な資金がありませんでした。逃亡を試みましたが、すぐに逮捕されています。

被害の全容は凄まじいものでした。約3万2000人の預金者から集められた約3800万グルデン(現在の価値で約1億5200万ポンド相当)のうち、回収できたのはわずか15%程度だったとされています。

1873年の裁判では、驚くべきことに詐欺罪ではなく不正経理の罪で約3年の禁固刑が言い渡されました。当時の法律にはポンジ・スキームという概念が存在しなかったためです。スピッツエダーは服役中に回顧録を執筆し、出所後は歴史の表舞台から姿を消しました。1895年に63歳で亡くなっています。

罪対ペイ運営者 賠償罪子のアイコン
賠償罪子

この事件が150年以上前のものであるにもかかわらず、現代の投資詐欺と構造が全く同じという点が恐ろしいところです。月利10%という異常な高利回り、口コミによる拡散、杜撰な会計、そして新規預金者の金で既存預金者に支払う自転車操業。ポンジ・スキームは名前こそポンジに由来しますが、手口そのものはそれよりはるかに古くから存在していたのです。

まとめ

  • スピッツエダーはシャルル・ポンジより約50年早く、新規預金者の金で既存預金者への利息を支払うポンジ・スキームを運営した
  • 月利10%の高利回りで3万2000人から3800万グルデンを集めたが、1872年に崩壊。回収率はわずか15%だった
  • 150年以上経ってもポンジ・スキームの構造は全く変わっていない。異常な高利回りの約束は、いつの時代も詐欺の最大の警告サインだ

よくある質問

Q
スピッツエダーのポンジ・スキームは本当に世界初ですか?
A

記録に残る中では最古のポンジ・スキームのひとつとされています。一部の研究者は、アメリカのジェイコブ・ヤングやナンシー・クレムらが1860年代に同様の仕組みを運営していた可能性を指摘しており、完全な世界初かどうかについては議論があります。ただし、スピッツエダーの事件が最も規模が大きく、記録が詳細に残っているものであることは間違いありません。

Q
なぜ詐欺罪で裁かれなかったのですか?
A

当時のバイエルンの法律には、ポンジ・スキームのような投資詐欺を直接罰する規定が存在しませんでした。スピッツエダーは投資の運用先について虚偽の説明をせず、担保も提供しないことを明言していたため、逆説的に顧客がより信頼するという構造もありました。結果として、不正経理という比較的軽い罪での有罪にとどまりました。

Q
ポンジ・スキームの名前の由来であるシャルル・ポンジとの違いは何ですか?
A

手口の本質は同じですが、規模と知名度に違いがあります。シャルル・ポンジは1920年にアメリカで国際返信切手を利用した投資詐欺を行い、メディアの注目を大々的に集めたため、この種の詐欺にポンジの名前が付けられました。スピッツエダーの事件はポンジより約50年早いものの、19世紀のバイエルンという限られた地域での出来事だったため、国際的な知名度は低くなっています。

【出典】参考URL

コメント

※本記事の内容については、できる限り正確な情報を掲載するよう努めておりますが、完全に正確であるという保証はありません。一部の内容に誤りや適切でない表現がある可能性があります。ご了承の上、参考程度にとどめていただければ幸いです。なお、記事の改善点などがございましたら、ぜひコメントにてご指摘ください。
詐欺事件
\この記事をシェアする/
\賠償罪子のSNSに遊びにいく/
タイトルとURLをコピーしました