いくらちゃん
今回は歴史上の偉人が登場しますね。
賠償罪子
そう、坂本龍馬が徳川御三家の紀州藩から多額の賠償金を獲得した事件です。
事件とは
1867年、(慶応3年)
小銃と弾薬を輸送する必要があった土佐藩から後藤象二郎がいろは丸の貸与を求め、大洲藩はこれを承諾。そして、土佐藩のために坂本龍馬ら海援隊員が乗り組んで出航。
しかし、同年5月26日、瀬戸内海を航行中に紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突。
曳航中のいろは丸は鞆の浦までたどり着くことなく、沈没。
全海援隊士、含む坂本龍馬は、無事に明光丸に移乗し、死者0人。
龍馬は、海難事件後の交渉で明光丸の船長、高柳に一万両の賠償金を要求。高柳は一度は千両を提案したが、これを龍馬は拒絶。さらに高柳は返済期限を設けて一万両を提供することを提案したが、これもまた龍馬は拒否した。
交渉は決裂し、明光丸は長崎へ向けて出航。龍馬もまた長州藩船に乗り込み、追いかける。数週間後、長崎で交渉が再開。このとき龍馬らは3万5630両相当の銃火器と4万7896両198文相当の金塊を失ったと主張。
しかし、紀州藩側はこの主張を否定し、長崎奉行所に公裁を求めることを提案。最終的に、紀州藩は1ヶ月後に折れ、積荷代に相当する賠償金8万3526両198文を支払うことで合意。
その後、賠償金は7万両に減額されたうえで土佐藩に支払われた。しかし、賠償金を受け取る前に龍馬は暗殺された。
事件の主要3つの要素
- 事故原因と結果
- 国際法への対応
- 坂本龍馬の戦略
いくらちゃん
8万3526両198文は現在いくらですか?
賠償罪子
簡単には計算できません。ただ目安として
米一石(約150kg) = 一両とするとした場合、一両は、12万円になります。
一両12万で計算すると、8万3526両198文は約100億円です。
江戸時代のお米の値段 米1石(約150kg) = 1両とすると… (18世紀)
参照:貨幣博物館(https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/edojidaino1ryowa/)
事故原因と損害
いろは丸と紀州藩の帆船明光丸との、衝突事故の原因については、万国公法に基づくと、夜間航行中の明光丸には避ける責任があったとされる。つまり、過失は明光丸、すなわち紀州藩側にあると考えられる。
明光丸が避けなかったことにより衝突、いろは丸は沈没。沈没したいろは丸には、銃火器、金塊などが積まれており、それら全てを失ったのがその損害が、銃火器3万5630両と、金塊など4万7896両198文。
合計8万3526両198文。
国際法への対応
交渉の舞台では、龍馬が最新の国際法、万国公法を用いて問題解決を試みた。
この法律は、当時清朝で漢訳され、後に幕府の開成所によって日本語に翻訳されたもので、日本での国際法としていた。
紀州藩の一方的な主張に対抗するため、そして幕府の直接の介入を避けるため、龍馬はこの万国公法を交渉の中心に据えた。
しかし、江戸時代末期の日本では、国際法に関する理解や経験が乏しかったことから、その活用は困難だったのが伺える。
万国公法は外国の法律であり、日本人には未知の部分が多く、江戸時代の日本には国際法を適用する体制が存在しない。
その体制の中で、万国公法を中心に据えた龍馬のすごさが分かる。
坂本龍馬の戦略
龍馬の巧みな戦略は、市井、(一般市民)を巻き込む形で効果を発揮。自作の歌を通じて市民の共感を引き出し、海援隊への支持を広めた。「船を沈めた償いは金を取らずに国を取る」という歌詞で民衆の心情を反映し、世論を動かす。
さらに、土佐藩は長州藩と組んで紀州藩と戦うという噂を流すことで、紀州藩の立場を不利にした。
これら一連の動きにより、紀州藩は賠償金による解決を求めざるを得なくなる。龍馬の戦略が紀州藩を動揺させ、最終的に海援隊に有利な裁定に繋がった。
戦略の解説
コミュニケーション
龍馬は民衆を巻き込むために自作の歌を広めるという方法を用いた。 これは単なる交渉ではなく、情報の流れをコントロールし、広範囲な共感を得るための巧妙なコミュニケーション戦略とも言える。
心理戦
龍馬は交渉相手である紀州藩を不利にするために噂を流すなど、心理的な攻撃もした。 これは心理戦の一環であり、相手の心理を揺さぶり、自身の立場を有利にするための戦略と言える。
プロパガンダ
また、自作の歌による海援隊への支持拡大や、紀州藩に対する不利な情報の流布は、一種のプロパガンダ活動である。 これは自分たちの立場を強化し、相手を弱体化するための手段として、多くの政治的な戦略において利用されている。
リーダーシップ
龍馬の行動はすべて、困難な状況下で自身の意志を貫き、組織や集団を導くリーダーシップの一部とも言える。 情報の管理、心理的な攻防、世論の操作等は、効果的なリーダーシップを発揮するための重要なスキルである。
以上のような観点から見れば、龍馬の行動は単なる交渉術を超えた戦略的な行動と言えるでしょう。
まとめ
紛争の解決には様々な手段が存在し、それぞれの状況に合わせた戦略が必要だということです。
龍馬は新しい国際法の理解を用い、また、広範な市井の声を引き立てて交渉を有利に進めました。
これは、我々が直面する問題にも通じるものです。知識を深め、さまざまな視点を考慮に入れることで、私たちも難問を解決するための新たな道筋を見つけることができるのです。
問題に直面したときは、目の前の困難に立ち向かう勇気と、それを乗り越えるための多角的な視点を持つことの大切さです。
賠償罪子
最後に。
2005年に実施された、いろは丸の第4次海底調査では、龍馬が主張した銃火器、金塊は発見されてません。
いくらちゃん
!!!!!!!!
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